【無料記事】関西弁に在る自分。

やまちゅーの秘密基地

2022/02/06 07:11

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突然ですが、人ってなんで生きるんでしょうね。
なんのために生きてるんですか?って非常に失礼な質問だと思いますが、
理由なんていらないと思うんですよ。
でもね、事実だけを切り取って、その感情的な部分はとりあえず置いておいて
なんで生きてるんでしょうね。

僕ね、答え出たんです。
「生(せい)を感じるため」なんじゃないかって。

お腹いっぱいになると生きてるーって感じません?
たくさん寝て元気になると生きてるーって感じませんか?
なんかそういう単純な話な気がするんですよね。
生きる意味って。

ところで僕は、
東京に出てくる前、大学生をやっていた約2年間。
僕は名古屋の隣の愛知県春日井市坂下に住んでいた。

生まれて初めての1人暮らしで
高校ラグビー生活と実家の両親から解放された初めてのひとり。

今以上にインターネットが好きで、
近未来的なガジェットが好きだった。

とにかくPCと共にいて、
エロサイトから違法アップロードされたアニメまで随分と見まくっていた。

この時学生ではあったが、
社会人1年生であり0歳児という感覚であったんだろうと振り返れば思う。

この頃の様々な葛藤や無意味なその場しのぎの発言やカッコつけについては
語りきるには2年くらいかかりそうだから、
今回は焦点を「言語」に迫ろうと思う。

僕は奈良県御所市出身。
御所という街は、奈良県のくせに鹿もいないし大仏もいない。
実は城下町だったようで、あるいは、
城下町にする予定があったようで
碁盤の目状になっていたりする街並み。

墨と靴下とスリッパと柿と寺と地酒で成り立つような街だったが、
最近は母校のラグビーの活躍が凄すぎてスポーツの面でも
全国レベルで有名になって、空席だったスポーツの歴史に名を刻み始めている。
もう20年以上くらい前から始まったような生ける伝説だ。

盆地である土地柄か
狩猟的な考えを持つ人は少ないように思う。
保守的で、真新しいことを嫌い、身内に対して異常なほどに
身内感を誇示し、他人的感覚がなくイメージの上に成り立つ「らしさ」を強要し
挑戦を阻む文化がある。

平たく言うと、
出る杭になりそうな杭は削って滑ってそのまま落ちろ。
あるいは、
若い芽は摘まずにそのまま放って置いてネガティブな言葉をかけ続けろ。

そんなような感じ。
具体的に言われる言葉の代表的なものに
「お前みたいなんがなれるわけないやろ(笑)」

理由も述べられず、現実を見ることすらさせず
夢をも見ることが出来ない街、それが僕にとっての御所。

少しだけ話が逸れるが、
これを読んでくれている方は方言に憧れたり、
少なからず方言的な言い回しやイントネーションを持ちつつ
敬語になれば標準語になるといったような方であると思う。

敢えて『言語』といおう言い方をするが
僕の言語は、関西弁だ。

ここ数日、数週間で
僕は初めましてをいくつか繰り返した。それも1対1で。

どこに行っても見抜かれる関西出身。
それは言葉の節々端々に見られるイントネーションのせいだと思う。

正直イラつくんです。
というのも、こっちは関西弁で嫌な気にさせてしまうんじゃないかって思いこんで
少しでもフラットに話が出来るように
敬語を使って標準語っぽく話をしているのを横目に
「出身ってどちらですか?」
「出身って関西ですか?」

それってあなたと僕の関係を形成させるうえでそんなに重要な話題でしょうか?

これにムカついた僕はたまに訳の分からないムーブをすることがあって
どこの訛りか分からないけれど、とりあえず訛って話すというやつをやる。

すると言われるんです。
「沖縄ですか?」
「沖縄ですか?」

これ以外言われたことない。
どうやら顔らしい。顔が沖縄の人っぽいらしい。

こうしてイラつくことに対して深く考えることはそんなになかった。
ただ、なんか不快だな。ってくらい。

もしかして…って思って指摘するのは別に構わないんだけれど
もっともしかして…っておもうところ無いですか?
っていうところなんですよね。

言葉悪いですが、
あっっっっっさい(浅い)なー!って思っちゃうんです。

深く考えてみたら、
多分、劣悪(だと勝手に思い込んでる)な地元の人たちが使う言語を僕も使っていると一緒にされることが嫌だったのかなって思います。

そもそも僕が意識して(ありがとうのイントネーションに特に気を付けたり)、
標準語を使うようになったのは、ラーメンズの影響が大きかったんです。

ラーメンズにハマって、今までお笑いと言うのは
新喜劇や上方漫才が僕の常識でしたから
標準語でそれも独特なテンポで別に速い必要も無く
笑かすことが出来て、とにかく丁寧なんです。

それから、小林賢太郎のインタビューやら本やらを読み漁り
言葉に対する尊重と日本語の美しさとそのバリエーションを学びました。

ジャンルは違えど同じ舞台に立つ人間として(僕はど底辺ですが)
これは吸収した方がいいと思い、実践しました。

その実践の場が、そう"ここ"です。
書き言葉です。
まずは書き言葉からはじめました。
いやー本当に苦労しました。
変換時にわざわざ関西弁で打ち込んでも認識してきちんと変換してくれないことに
「なんでやねん!!」ってキレてたほど関西弁で打ち込んでましたので、

それを標準語で打つことで変換は楽なんですが、
なにやら聞こえてくるんですよ、幻聴で妄想ですがね。
姉からの声で「〇〇だ、ってなんやねん(笑)」
みたいな。

~だよ。ってなにw

みたいな。

そんなこんなな文句も全部、遠い地で生きる僕としては知らんふりをして
僕は本名も芸名も同じですが、
役に徹すればいいと思い、無視して打ち込んでいました。
二つの意味で。文字と、こう…なにか…をやるという意味で。←

そもそも、大学生をやっている時は
関西弁を使わない自分になるなんてありえないと思っていました。
関西弁強い!関西弁カッコいい!個性!個性!!個性!!!
みたいな感じです。

今思えばきつい勘違いです。

関西圏を出て何かをやる自分というのが当時は想像出来なかったんでしょうね。
一種の強迫観念のようなもので、
地元捨てたんかと言われることが怖かったように思います。

東京に出てきて、数年して地元に帰ったり
配信にコメントで地元のやつらが現れると
たまにくる「地元捨てたの?w」ってくる発言に
真顔で「捨てたよ」って言うようにしています。

誰のものでもない地元の地を何故僕は捨てることが出来るのだろうか。
そして、捨てたからと言ってなんなんだ。
魂売ったみたいなことを冗談で言ってくるやつも少なくなかったけれど
そもそも魂は地元に無くて、いつも俺が携えています。


さて、
そんな思い出や、昨今の出会いの中で唐突に指摘される出身地。
自分のポリシーやトラウマ回避のために意識的に使う言語。

コロナ禍で自宅にいることが本当に多くなって
自分と向き合うことが多かった2021年と継続される今。

「自己表現」についてよくよく考えます。
それは、生徒を持つようになってからというもの特に。

今の生徒のほとんどが学生という部分も
多分に影響していると思うんだけれど、

ここ数日で出会ったいくつかのコンテンツが
僕にこうしてこのブログを書かせているのが結論なのですが、

0.脱毛中にエステティシャンとの会話で「関西出身ですか?」
①新垣結衣がしゃべくりセブンでADさん?と沖縄弁で話す動画
②Twitterで見た、この歌で何か伝えたいことある?に対して「ない」という問答
③映画セトウツミ
④怒ると炸裂する関西弁

0でこれまでの経験が集約され、言語に基づくアイデンティティを考えるトリガーに。
①新垣結衣がとにかく可愛く見えた。正直そんなにタイプじゃないんです。(理由はあるが今回は割愛)

②自己表現をする上で、作詞作曲を教える上で、歌唱を教える上で、僕も良くする質問なんです「これでなにを伝えたいですか?」
はっきり「ない」と答えられれば、それはそれでスッキリするのですが、
大いに悩まれて正しい(っぽい)答えを出そうとし、講師である僕の顔色を伺う人もいます。
個人的な見解ではありますが、
「ない」も正解だし、何か明確なメッセージがあるのも正解だと思うんですが、
他人の顔色を伺うのだけは作品とやっている姿勢に対して間違いだと思います。
ちなみに、「ない」がなぜ正解かというと、

歌う姿や作品を発表することという行為そのものが、
自己表現であると帰結できるからです。
つまり、再生されたりする時間そのものが表現となりうる場合、
その作品自体に意味があろうがなかろうが関係ないから「ない」が正解になるんです。

こんなような自己表現について考える機会になったんです。

③映画セトウツミを見たんです。
菅田将暉と池松壮亮が高校生役で
ずっと関西弁で言い合っている1時間を超える漫才映画です。漫才映画です!!
日常を切り取ったような映画なんですが、
酷評なレビューも多い中、僕は大好きな作品のひとつになりました。

④僕は怒るとちゃんと関西弁になります。
稀に標準語で、ものすごくきれいな標準語でキレることもありますが
基本的に関西弁です。
水溜りボンドのトミーにそっくりなかけちゃんがいる3人組Youtuberのケビンズルームというチャンネルがあるのですが、
その動画の一部に、英語で喧嘩する動画があります。

かけちゃんが英語で喧嘩してみたいって願望があるらしく
その願望をかなえるために撮られたような動画なんですが、
怒っている時って冷静じゃないから、ありのままが出るよなー…と。


このような出来事が重なって、
自己表現をするツールとして音楽に身を置いて
喋ったり、言葉を使っている僕が何か取り繕っているのって
全然リアリティないし、それって『ありのまま』じゃないよね。

って思ったんです。
もっと自分をさらけ出さないといけないのになんでだ…??

って考えたら、
(前半に書いたように)僕にはそんな歴史がそういえばあったなぁと。
そう、もう「そういえば」ってくらい忘れちゃってたくらいの過去なんです。

地元や家族に対するイメージも随分と僕の中では濾されて、事情も分かってきました。
それでも良くない文化は未だに個々の思想自体に根付いているとも思いますが。

それで、このブログの結論は、
今となってはほとんど考えなくなってた使う言語についてですが、
この書き言葉もそうですし、
これのように標準語的な言葉を今まで通り使うと思います。
ただそれはフォーマルな場面でだけで。

自身を個として認識して、
自己表現に身を置いたときには、意識的に関西弁を使っていくつもりです。
なぜなら、新垣結衣が可愛く見えたのも、怒る時に第一言語が出てくるのも「ありのまま」だったからだと思うんです。

僕は僕を応援してくれる人の前で「ありのまま」でいたい。
そうじゃないと僕は生を感じることが出来ないと思うんだ。

あなたは、いつ最も生を感じますか?
またぬ。

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